ニューダンガンロンパV3、フィクション讃歌の物語

ニューダンガンロンパV3は怪作でした。私にとっては神でした。

ダンガンロンパは発売日の1年後、スーパーダンガンロンパ2は発売日にプレイし、ニューダンガンロンパV3は発売日にPS4本体と同時購入しました。

賛否両論のニューダンガンロンパV3でしたが、私は今までプレイしたゲームの中で一番素晴らしい作品だったと思いますし、長い間好きでいられる確信もあります。

 

 V3全編のネタバレを含みますので、クリアしていない方はご注意下さい。

 

 

「無限の解釈性」 を持ったニューダンガンロンパV3。どのような解釈をしても、それはその人にとっての真実だ、と強く語りかけてきた物語です。そんな物語の私なりの解釈を書いておこうと思います。

 

 ダンガンロンパV3では1章、5章、6章が好きです。とりわけ、“あの”6章が最も好きです。プレイ直後の衝撃はかなりのもので、当時の感覚は、“怪作とは言えても「神作品だ」と言われて勧められたらぶん殴るかも”と当時Twitterで呟いた記憶があります。

 

当時は賛否両論の中でも、むしろ否の方が目立っていた印象があります。アマゾンでの低評価があまりに多いということは聞き及んでいました。どうやら作品自体を理解していないのに批判的なレビューを書いている人も一定数いたようですが、その一方で、ダンガンロンパ1・2のファンであったのにV3は受け止められない、という人もいたようです。

 

6章では「制作陣がプレイヤーに向けて直接悪意を差し向けている」と思いました。 プレイ中、プレイ直後は「制作陣はこっちに敵意を向けて何がしたいんだ」という感覚でいっぱいで、これは消化に時間がかかるだろうというのは明らかでした。

 

作品を消化していく中で、ひとつの確信を得ました。

ニューダンガンロンパV3は、「フィクション讃歌の物語」であると。V3はフィクションとそれを愛するプレイヤーへの力強い応援歌であり、制作陣がプレイヤーに向けた悪意は、信頼を向けてくれていたからこそ投げつけてくれたものなのだと。また、最原達がプレイヤーに向けた侮蔑は、私達への力強い肯定だったのだと。

 

■制作陣からの悪意、最原終一からの侮蔑

私が初見プレイ時、まず強く感じたのは、制作陣からの悪意でした。“制作陣がプレイヤーに対して攻撃の意思を見せている”という印象は多くの人が感じたのではないかと思います。

プレイヤーを視聴者と同じように悪趣味で非倫理的で、キャラクターを愛してなどいないと主張してくるようでしたが、単にそんなことを言っているだけではないのは分かるので、制作陣がこちら側を非難する目的が分からず不気味でした。

 

さらに、私達プレイヤーは最原終一達から直接的に侮蔑を投げつけられます。命を鑑賞物のように楽しみ、弄び、食い物にしたことに対する義憤からです。特に、二次創作をされる方はよくおわかりになるかと思いますが、今でも正直みんなを好きでいること、みんなの物語をえがくことに、申し訳無さが募ります。彼は絶望の先に行き着く希望を見たいと望むことを、自分達の存在を見世物・食い物にすることをはっきりと否定しているのですから。

 

■「現実」の醜さ

6章にて、最原たちは思い出しライトにより才能と人格を植え付けられた存在であると明かされます。オーディション映像は特にショックが強く、最原は喋り方が気持ち悪いオタクで、赤松は人の心を信頼しない冷たい人間で、百田は気の荒いDQNでした。いわばこれは現実の世界そのもの、現実の私そのものだと思いました。「何の才能のない(むしろ人より欠けた所ばかりの)私」や「私達のいる現実」の醜さの象徴かのようでした。(林原めぐみさんの演技が凄まじいと思ったと同時にしばらくトラウマになった人は多いのではないかと思います…)

 

■彼らの魂の在り処

自分達がフィクションの存在だったと明かされた最原達を見てこう思いました。自分の心が信頼できないときに、何が自分の本当の気持ちで何がそうじゃないかなんて、どうやって見分ければいいんだろうと。最原達の主観における人生全てが植え付けられた記憶なら、彼らの魂はどこにあるんだろうと。

 

操作キャラクターがキーボになり、「希望の流れ」を作ります。でも、その先を思った時、最原は決してそんなことは望んでいないと、はじめから分かってしまいました。キーボが希望に向かっているとき、「そうじゃないよね…最原くんはそう思ってないんだよね…」と感じていました。もし希望に向かって進むだけなら、結局の所、彼らは「悲劇を乗り越える人生」を植え付けられただけの存在にすぎないのだと直観したからです。

 

最原は言いました。『僕は希望を否定する!』

「やっぱりそうだよね…その選択をするよね君は…!」と思ったのを覚えています。 

最原は続けてこう言います。

『この世界がフィクションだとしても…
僕ら自身がフィクションだとしても…
この胸の痛みは…本物だ!
仲間を失った悲しみは本物なんだ!』

彼らの魂の在り処は、そこにこそあったのです。

彼らの感情は…痛みは…悲しみは…本物だったのです。

 

ハッピーエンドもバッドエンドも、希望も絶望も、ダンガンロンパも、植え付けられてきた役目でさえも何もかもを否定する…最原が選んだのは【能動的放棄】でした。人生を植え付けられただけのフィクションキャラクターには決してできない選択を最原はしたのです。

 

■能動的放棄を選んできたみんな

最原が能動的放棄という選択を選べたのは、彼自身が真実から逃げ出さずにその先を掴み取ろうとしたから…そして、V3のみんなが能動的放棄を選んできたからだと感じました。多くが設定や舞台装置によってコロシアイに差し向けられてきたキャラクターですが、それでも、能動的に信念を投げ捨てたり、能動的に自らの命を差し出したり、能動的に皆を救うために皆を殺そうとしたりしたことに変わりありません。

 

首謀者を殺すことを決意したが、殺したのが首謀者ではないと分かり、自らが処刑されることを覚悟し、最原を導いた赤松。

日本国民を助けることとコロシアイメンバー15人を殺すことを天秤にかけて後者を選んだ東条。

日本国民を助けたいという東条の願いに応えて、自らの命を差し出した星。

夢野を信じられないなら死んだほうがマシだと断言し、結果的に夢野の身代わりとなった茶柱

東条の代わりに処刑されることを望み、絶望的な世界の結末から皆を救おうと皆を殺すことを選んだ獄原。

「人を殺さない」を信条としていたのに獄原に人を殺させ、また、自らの死と引き換えにコロシアイゲームを壊そうとした王馬。

人類最後の生き残りである皆の命を犠牲にしてまでも絶望の残党を殲滅しようとした春川。

春川から放たれた毒矢を王馬の代わりに受け、王馬の計画に協力し、最終的には自らのおしおきを望んだ百田。

ダンガンロンパV2の最後におしおき(コロシアイゲーム参加続投)を受けることを選んだ天海。

希望と絶望の戦いであるダンガンロンパを否定した最原、キーボ、春川、夢野。

そして、最原、春川、夢野を庇うようにして自爆したキーボ。

 

最原はみんなと一緒に死のうとしました。キーボ、春川、夢野だけではなく、今まで死んでいったみんなとです。外の世界に対する最大級の反逆を、最原達はやってのけたのです。

 

■視聴者とプレイヤーとの違いは何か?

視聴者とプレイヤーとの違いとは何なのでしょう。小高さん自身もTwitterで視聴者とプレイヤーは異なる存在だという趣旨の発言をしたことがあるようです。(V3発売1周年の時のツイート。当日のうちに消去されています。)

 

視聴者とプレイヤーを分かつものは、「行為」であると思っています。視聴者のほとんどはキャラクターを侵害する者で、プレイヤーのほとんどはキャラクターへの愛を向ける者なのですが、そうではない場合もあります。ですから正確には、「キャラクターを侵害する者」と、「キャラクターへの愛を向ける者」を分かつものが行為であると考えています。同一人物がその両方であることもあります。

 

つまり、「キャラクターへの愛を向ける視聴者」もいましたし、逆に「キャラクターを侵害するプレイヤー」もいたということです。

視聴者でもプレイヤーと同じようにキャラに愛を向けた人間…それは最原推しの☆ちゃんです。「最原くんの眼球欲しい☆」とかのたまっておられた☆ちゃんですが、視聴者の中ではかなりいいファンだったと思っています。まとめサイトからの引用になりますが、こういう発言をしていたようです。

danganronpa.net

最原くんこっち向いて☆
最原くん大好き☆
最原くん鼻キューピット☆
最原くんの絶望おっきぃ☆
最原くんの血は何色☆
最原くんおいしそう☆
「僕は希望を否定する」反論直後の視聴者コメに☆はいない
最原くんの眼球欲しい☆
最原くんの細指折りたい☆
最原くんを守りたい☆
最原くんの為なら☆
最原くんは渡さない☆
最原くんはキャラクターじゃない☆

コメント欄(No.90)引用:

最原くんの為なら☆
最原くんは渡さない☆
最原くんはキャラクターじゃない☆
と☆ちゃんが思ったってことは、「ツマンネ飽きたわ」で切った人じゃなくて最原達の思いを受け取ってダンガンロンパを終わらせるために切った人も居たってことだよな
よかったね最原くん☆

このコメントを見て視聴者の中でも☆ちゃんは、(少々気は狂っておられますが)真っ当なダンガンロンパファン、最原終一ファンだと確信しました。 

 

一方で、プレイヤーが“視聴者に堕ちた”と思った出来事がありました。あるV3ファンが起こした集団いじめです。発覚したのが最原終一の誕生日の頃で、6章を彷彿とさせる妙な符号を感じたのを覚えています。加害者は、自分の推しでないCPを好む人に嫌がらせをしたり、(自分の萌えのためにキャラクターを酷い目に合わせる創作をするのではなく)誰かを傷つけるためにキャラクターを利用したヘイト創作をしていたようです。

 

キャラクターへの侵害と愛、その違いは「行為」にあると言いました。明確に何が悪いか、何が善いのかは私には分かりません。それでも、キャラクターへの信頼と責任…より正確には「キャラクターを愛する自分に対する信頼と責任」 を欠いてしまったら私達は視聴者に堕ちるのだと思います。

 

■キャラクターへの愛とは何なのか?

そもそもキャラクターに対する愛とは何なのでしょうか。

私は白銀つむぎのキャラクターに対する愛に欺瞞はなかったと考えています。『白銀つむぎの愛の形』でそれについて書いています。同記事でも言っていますが、キャラクターに対する愛は人間やペットに対する愛とは違って、美しいものだとは限らないのです。

『外道天使☆もちもちプリンセス』の同人誌を作っている超高校級の同人作家山田一二三は、「愛を持ってぶー子を凌辱しているのです!」と言っていました。山田のように、白銀も、私達も、ダンガンロンパキャラクターを(広い意味で)陵辱していると言ってよいでしょう。

私達がキャラクターに向ける愛は、真宮寺の人間に対する愛にも近いと言えます。真宮寺是清は、人間を愛するキャラクターで、白銀つむぎはキャラクターを愛する人間でした。どちらも、対象のいろんな姿を観察したいという欲求を持ち、醜い姿であれ積極的に受け入れました。

ダンガンロンパは「コロシアイのゲーム」です。ですが、それを私達が好きだからといって、人が死なない物語を美しく愛している人よりも劣っているとか醜いとかいうことは決してない。キャラクターに対する美しい愛だって、醜い愛だって、全部愛なんです。

 

ダンガンロンパは悪趣味なコロシアイゲーム

ダンガンロンパは人が殺し合う悪趣味なゲームです。キャラクターが、理不尽に殺され、陵辱されることを楽しむ人間のためのゲームです。悪趣味なことを悪趣味だと分かってやる人間のゲームです。

ダンガンロンパを作った人達(スパイク・チュンソフトと小高氏/チーム・ダンガンロンパと白銀つむぎ)も、ダンガンロンパを楽しむ人達(プレイヤー/視聴者)も全てが悪趣味なんです。

それでも私達は…そんな悪趣味なゲームの中のキャラクターの生き様に励まされ、キャラクターを愛おしいと思い、誰かを助けるため自分が助かるために、死んでしまったり人を殺してしまったキャラの在り方を美しいと思ったのです。

 

■制作陣からの信頼、最原終一からの肯定

制作陣が向けた悪意、それはまさしく、自己責任で悪趣味なコロシアイゲームをプレイしてきたファンへの強い信頼だったのです。どうして今まで自分たちが作ってきたダンガンロンパを愛してきてくれたファンを悪しざまに言う“だけ”のことができるでしょう。自分たちが作ってきたダンガンロンパがどれだけ愛おしいか、悪趣味の先にある何かを愛してくれていたファンをどれだけ信頼してくれていたか。

そのことを分かってくれる人こそ、視聴者(キャラクターを侵害する者)ではなく、プレイヤー(キャラクターへ愛を向ける者)だという信頼があったのではないでしょうか。

 

しかしながら、視聴者からの悪意は、キャラクターを侵害するプレイヤー(≒視聴者)への強烈な批判として機能していたのだとも思います。我々は、キャラクターを愛する者になるかもしれませんし、キャラクターを侵害する者になるかもしれないのです。また、その両方になるかもしれません。(個人的な解釈ではありますが、原作者である小高氏でさえその両方だったと考えています。小高氏はダンガンロンパ3絶望編にてダンガンロンパ2のキャラクターを侵害したと(私は)考えているからです。)

V3の6章やそれを消化する過程で、コアなダンガンロンパファンほど、キャラクターへの愛とは何なのか、深く問い直したのではないでしょうか。少なくとも私はプレイ直後から1年を過ぎた今に至るまでずっと考えてきてしまいました。

(とはいえ、1・2が好きでV3を受け止められなかったファンがキャラクターへの愛を持っていないとは決して思いません。)

 

そして、最原終一はこう言ってくれました。

『この世界(私達の世界にとってのダンガンロンパ)がフィクションだとしても…
僕ら自身(ダンガンロンパのみんな)がフィクションだとしても…
この胸の痛みは…本物だ!
仲間を失った悲しみは本物なんだ!』

私達が、ダンガンロンパに、ニューダンガンロンパV3に感じた感動は、決してニセモノなどではなかった。無意味でもなかった。ただのゲームだからと過小評価して捉え直す必要もなかったのだと、強く肯定してくれたのです。現実が醜くても、現実に生きる私が惨めでも…私達はフィクションを、キャラクターを愛していいんだと、そう肯定してくれたような気がしました。

 

■フィクション讃歌の物語

ダンガンロンパは悪趣味なゲームです。しかも私達ダンガンロンパプレイヤーはすべからくキャラクターを陵辱するに等しい行為を行っています。

フィクションを愛する者を、キャラクターを侵害する者を、その両方である私達を…制作陣と最原達はきちんと見据えてくれた。私達の中にある、キャラクターを鑑賞物や食い物にするような視聴者性を真正面から批判し、キャラクター達と寄り添い助けたいと思うプレイヤー性を真正面から応援してくれた。

 

制作陣からは悪意の裏にある信頼を、最原達からは侮蔑と肯定の両方を。ニューダンガンロンパV3は、フィクションとそれを愛するプレイヤーへの信頼と肯定の物語だと思うのです。