白銀つむぎの愛の形

ニューダンガンロンパV3ダンガンロンパ1,2のネタバレがあります。

クリアしていない方はご注意を。

 

白銀つむぎはクリア直後まではノーマークでしたが、クリアしてしばらく経った後、強烈な共感を抱くようになりました。ダンガンロンパオタクとしての共感です。今ではすっかり推しの一人。

 

話は変わりますが、ダンガンロンパV3のクリア直後に開放されたおまけモード、育成計画。僕たちを見世物になんてさせるものかと決意し、意思的な死を選ぼうとした最原達の結末を見届けた後の、キャラクターを食い物にしたおまけモードの開放です!パチパチパチ!なんて悪趣味なんだ!(実際、テレビ画面に向かって「あっくしゅみだな…!」とかいいながらテンションバリバリでスタートボタンを押しました)

 

もしこれがバラエティ番組として放映されていたとしたら…。ダンガンロンパ1,2がフィクションと明かされた以上は、白銀以外のキャラクターは全てフィクションキャラクターです。江ノ島盾子でさえフィクションです。白銀には江ノ島を超えた不気味さを凄みを感じませんか?次元が違う人間なんですから…。

 

さて、白銀つむぎに対する解釈のひとつに、彼女のフィクションに対する愛はある種の欺瞞性を持っていて、【フィクション < 現実】という図式で捉えていたのでは?というものがあります。

たしかに、「あなたたちはたかがフィクションの存在」「あなたの感情はそう設定しただけのこと」という趣旨の発言をしていたり、ダンガンロンパ1,2のキャラが言わないだろうことを演出のためにコスプレをして言ったり、フィクションキャラ(=V3メンツ)に生まれる絶望を鑑賞物のように消費したり、フィクションの軽視とも取れる言動が伺えます。 

 

白銀つむぎは、【フィクション < 現実】だと思っていた…結局の所フィクションキャラを軽視していた…その解釈に対して「それは違うよ!」と言っていきたいという記事になります。

 

まず前提として、白銀つむぎは単なる普通の熱狂的なオタクだ、ということを説明したいと思います。しかも、コアなダンガンロンパオタクです。江ノ島盾子のような思想を持ってはいません。

リアル・フィクション」とはいわば、究極系2.5次元舞台なのだと思います。もし、この制作に関われるとしたら、関わりたい…これがオタクの心理なのではないでしょうか。オーディション説に基づけば、最原終一達もそのようにして集まった人達なのだと思われます。(私はオーディション説否定派ですが)

 

白銀つむぎは、本気でダンガンロンパを愛していたからこそ、死の危険があるとわかっていて自らコロシアイに参加したのだと思います。それは酔狂とか、倫理観の欠如によるものではないと思うのです。

 それは例えば、冬山の登頂を行う人や、宇宙飛行士を目指す人と何も変わらないのではないかと思います。死の危険があるとわかっていて、現実的な利益が一切もたらされなくともやりたいこと、という意味ではなにも変わらない。

 

白銀つむぎが望んだものとは「ダンガンロンパというジャンルの拡張・布教と、ダンガンロンパの世界で生きること」それだけです。

 白銀つむぎは、現実よりフィクションが尊いとか、フィクションより現実が凄いとか、そんな甘っちょろい相対論でフィクションを捉えていなかったのではないかと思います。フィクションが、フィクションであることそれ自体で美しく、尊いのだと思っていたに違いないと思います。

 相対論の次元を脱して、フィクションへの無上の価値を認めていたからこそ、コロシアイの世界に首謀者として実際に足を運ぶという常識はずれのことをやってみせたのだと思います。

 

白銀つむぎはいわば、私達ダンガンロンパオタクと同じ次元に立つ人間です。つまりV3の作中においては、白銀つむぎは江ノ島盾子やカムクライズルよりも高次元の人間なのです。

フィクションキャラクターと私達の関係を考えてみましょう。例えば苗木くん。もちろん私達と苗木くんとでは生きている次元が違いますよね。彼の絶望に立ち向かう姿に我々は感動しました。舞園さんに始まり江ノ島盾子に終わる大勢の死を目撃しながら、人の死を引きずって生きてきた。彼の希望は、絶望の中でこそ輝いたのです。それから、つむぎも言ってましたよね、「死んでキャラが立つ」って。今作で言えば、赤松楓は死んでキャラが立ったキャラクターですよね。

 

彼ら、彼女らは、キャラクターなのです。絶望の中にある希望こそが尊いのです。死んだ仲間を乗り越え、もしくは引きずって生きていく姿、死んで輝く姿こそが美しいのです。私達ダンガンロンパオタクがそう思うのであれば当然、白銀つむぎにとっても同じなのです。

とくにダンガンロンパという“デスゲーム作品”を好むオタクは、キャラクターに対して、肯定的な愛情ばかりを向けるとも限りません。

霧切さんのおしおきにかけられる前の表情にゾクゾクしたりとか、狛枝の死体がやけに艶めかしいなと思ったり、2の絶望化した面々が人を殺したとしたらどのように殺したか想像したり、左右田和一が学園長の処刑に使われた宇宙ロケットを作ってたらいいなとか色々ありますよね?

 

そもそも、人間やペットに向ける愛情とキャラクターに向ける愛情とは本質的に異なるものなのです。ほとんどの場合、人は、何らかの愛(恋愛感情や友愛や家族愛)を向ける相手に対して、幸せであってほしいと願います。飼っているペットに対しても、過ごしやすく快適で苦痛がないように生かしてあげたいと願います。

しかしながら、キャラクターに対しては必ずしもそうではありません。 人間やペットに向けるかのような“美しい愛”を向けるファンが、そうでない愛を向けるファンよりも、ファンとして優れているということにはならないと思うのです。私は初見プレイ時1章から狛枝推しなんですが、彼に対しては1章裁判時点から「死ね」って思ってましたし、死んでなんぼのキャラだと思います。こと、ダンガンロンパにおいてはそういう愛の向け方は普通のことです。

 

つまり、白銀つむぎが最原終一達に対して非人道的な言動を取るのは、彼らがフィクションキャラクターだからなのです。人間やペットではありません。つむぎが最原達に非人道的な言動を取ったことそれ自体では、キャラクターに対して、自己中心的な愛を向けているとか、欺瞞的な愛を向けているとかそういうことは言えないのです。

 

確かに、キャラの自由意志や自発的な感情を尊重していませんでしたし、キャラが筋書き通り行動しないことへの鬱憤はあったでしょう。それもまた、「リアル・フィクション」という次世代の究極系2.5次元舞台の参加者兼運営者の素直な反応のように思えます。

このような行動原理で動けと規定したキャラクターが実際に自由に動いて、自分と同じ次元で生きていて、直接見れたり話せたりする愛おしさを感じつつも、自らの計画の阻害もしてくるから憎らしい。最終的には自分や愛しているダンガンロンパという作品そのものを破壊しようとしてきた…逆にそういう反応をするのが普通な気がしてきます、地味に。

ダンガンロンパを終わらせようとした最原はもちろん、女性を殺人対象とする真宮寺、ダンガンロンパのルールそのものに攻撃してきた王馬、おしおきの前に自然死した百田(しかも自分達が感染させたウイルス?によって)等、ままならないことばかりで大変ですね、白銀さん。

 

春川が百田を好きになることも、恐らく白銀の言う通り設定…好きになるように方向づけしたからなのでしょう。真宮寺が姉を好きなことは文字通りの設定=キャラクターデザインですが、春川が百田を好きになったことは、そのようになる因子を設置しておいた、というニュアンスに近いと思います。しかし、最原が言っていたように、彼女が感じている恋心や百田を守りたいという感情は本物なのです。

 

白銀つむぎが次元を超えて「降りてきた」姿はまるで、守護霊や天使かのような印象を受けました。もちろん、守護霊や天使みたいな素晴らしい性格とかいう話ではなく(笑)、そのような役割を持ってダンガンロンパV3のみんなを導いているのだと感じました。

あるいは、彼女がV3のみんなのデザイン・性格を設定する仕事を任せられていたのかどうかは分かりませんが、少なくとも“親”のような立場だったと言えそうです。ダンガンロンパキャラクターは、コロシアイの中にしか存在しません。スクールモード軸、アイランドモード軸、育成計画軸、これらはIFでしかありません。つむぎは皆がコロシアイの中で立派に生きられるように皆を誘導…もとい導いてきたのです。

 

つむぎの発言で、もっとも精神を抉られた言葉が「死んでキャラが立つって言うでしょ」でした。今作、生死予想を初めてしたのと、場面場面で死臭のする人から通信簿を埋めていく、というスタイルでプレイしていました。 「次死ぬキャラは誰だろ…」と考えることは、まさしく視聴者がやっていることと同じだった訳です。

 

V3のプレイ直後は、フィクション作品と、今私が住む現実世界の落差のようなものに鈍い絶望感を感じていました。キモオタのような最原、冷たいギャルのような赤松、DQNのような百田…なんとも言えませんが、それが一番効いていました。

 

解釈にもよりますが、最原達は元の人生を消され、無かった人生を植え付けられた人間です。彼らは、別の人生を植え付けられてもなお、「僕達の感情は本物だ」と言い切った。どんな感情を抱くかさえ決められていたのにもかかわらずです。V3の作中においては、苗木達も日向達もフィクションの存在でした。

そのことにもクリア直後は濁ったような気持ちを持っていました。最原達の魂はどこにあるんだろうと。でも、苗木達、日向達、最原達の感情は本物だったのです。そこにこそ彼らの魂があったのだと気づきました。

 

そうやって思ったのは、「私達プレイヤーがフィクションの存在に感動した気持ちは本物だ」ということです。むしろ、ダンガンロンパがフィクションであるからこそこれだけ心打たれたのだと。ニューダンガンロンパV3が、他に類を見ない圧力と迫力でフィクションについて語るフィクションだったからこそこれだけ心打たれたのだと。

 

白銀つむぎが、フィクションであるダンガンロンパに心底憧れていたのと同じように、私もフィクションであるダンガンロンパに心底感動したのです。

白銀つむぎがフィクションへ向けた愛は、本物だったのだと思います。私達が、ダンガンロンパに覚えた感動と同じように。